第 10 章「無量義(むりょうぎ)」
第 10 節「“LIFE”の一法とは」
生成生滅を繰り返す“LIFE”の実相の中で、「エンド・オブ・ザ・メソッド」とは何か。
これを訳して「破法」という。
あるいは生命を奪い、あるいは“LIFE”への信を破る。
破法を行う者の本質として、筆者は“LIFE”における敗北を挙げてきた。
挫折、失望、絶望、不信、背信といった、いずれも外縁に遭(あ)って人間の心の中で起きる事象に端(たん)を発する。
願いは貫き通して自らの手で掴み取るものだと教わっていても、固い岸壁に突き当たってやめてしまう。
未熟な思念で過大に盲信したことが実情に異なると、もう信じることはできないと心を閉ざす。
生老病死の無常を目(ま)の当たりにして立ち竦(すく)み、進むことをやめてしまう。
実相を捉えることができず、偏執(へんじゅう)から抜け出せない正法への不信。
他者を陥(おとしい)れてでも自らの快楽や虚栄誉を貪(むさぼ)ろうとする背信。
全てに共通するのは、自分にとって不満足な現実ならば、それ以外の他者などどうでもいいという、エゴイズムだ。
いかに万人の願いを平等に成就するか。
その中に自分自身を含められるか。
“LIFE”の提唱者は常に、人間境涯の向上を説くことで、この世を悲惨から解放しようと願っているのである。