第 10 章「無量義(むりょうぎ)」
第 08 節「“LIFE”を開く」
初めて“LIFE”の法を聞き、謗(そし)ることなく随喜して修行に励む者は、日浅しといえども絶大なる福徳と力とを身に体していくものだ。
サザナイアはまさにその身に当たっていた。
威信においてドガァに劣らず、百戦錬磨の技においてどのLIFE騎士にも優れ、声の力で人々を奮い立たせることゼオヌール公ザンダの姿にも重なり、宙は舞えなくともヱイユに通ずる神性を帯びてきている。
タフツァのような明晰さはないが、危険に飛び込んで活路を切り開く勇気は誰にも引けを取らない。
また、魔力はフィヲに遠く及ばないが、小なりとも意思の力で、より以上のものを持っている。
そして今のサザナイアは“LIFE”に目覚めた喜びにキラキラと輝いて見えた。
剣閃とともに弾け飛ぶものは魔法の発露でなくても、その“生命”から念々に発せられているものは、色心二法(しきしんにほう)に自在なるファラの智慧の姿によく似ていた。
『彼女の“生命”の奥底(おうてい)に眠っていた“LIFEの法性(ほっしょう)”を薫発したものこそ、フィヲの“生命”の光明に他ならない。
その“法性”の目覚めの早さは人により利鈍あっても、時間が許すならば、フィヲは誰の内面にも“法性”を見出し、サザナイアさんと同じ喜びまで導いていくにちがいない・・・。』
誰にでも守るべき地があって、仲間たちが旅立って行く中、彼女にもビオムという故郷がありながら、しばらく踏み止まって、最も危険な決戦の地へ、ファラやフィヲとともに赴くという。
今は世界のために戦うことが父母兄弟を守ることになるとサザナイアは考えた。
当然、打ち合いを愛する彼女には、剣の腕を上げたい、確かめたいという願望もあった。
しかし、シェブロンの教え子で最強の布陣を組んでなお、「長老の森」で戦うには不足であることを、ファラでもなくフィヲでもなく、サザナイアだけが直覚したのである。
還暦を迎えようというシェブロンは、若い者に混じって戦う困難を痛感していた。
ファラとフィヲ、ヱイユ、それにザンダの軍勢が加わっても、勝算は五分か、それ以下か。
本当はタフツァもソマも、騎士たちも、総動員したかった。
それは各地を脅かす魔軍の蠢動が許さない。
『あと一人、誰か戦力となる者はないか・・・。』
この師の願いに呼応するようにして、決戦前、最後の最後まで特訓を重ね、戦力として間に合ってくれたのがサザナイアだったのである。