第 10 章「無量義(むりょうぎ)」
第 02 節「悪王と邪師」
「タフツァはどうやって魔法を教えてくれるんだ?」
「最初は『クネネフ』の文字だけで発動を、それから課題を出してくださいます。
空き缶を倒す練習では、少しずつ距離を取って。
課題ごとに必要な『制御文字』を教えていただきます。」
「きみが魔法を撃つ時は、タフツァはどうしてる?」
タフツァもここまで自分のことを聞き出されると照れくさい。
だがウィロがどう感じているかに興味もあった。
「ぼくの出力がどれくらいか、タフツァさんは見て取られています。
それで、ぼくの魔力と同じ威力で、同じように撃ってくださいます。」
「ほう、それをしながら、何を考えるんだ?」
ヱイユがタフツァに聞いているのである。
からかい半分に、しかしタフツァの指導法を本気で知りたかった。
「ウィロと同じ気持ちになって、次の彼の課題を考えているんだ。」
内心で「さすがだ」とヱイユは思う。
幼少の頃、自分がレッスンしてもらった時は主にシェブロンが担当し、ムヴィアも見てくれていた。
もし彼らLIFEの先達がウィロを育てるとしたら、きっと同じようにしたに違いなかった。
こうした話を聞く機会がなければ、仮にヱイユが教え子を持っても、自分のしてきたように、過酷な旅にでも出してしまっただろう。
そして時々、旅先に現れては修行の成果を確かめようと手ほどきを与えるだろう。
そのやり方では、ウィロは育てられないのだ。
つまり高いポテンシャル(潜在能力)を前提として実戦で経験を積ませるやり方では、全ての人を開花させることはできない。
タフツァの指導法、いわゆる個々の“LIFE”を鍛え上げる魔法教育は、教えること、励ますこと、生かすこと、の繰り返しによって、この世に二つと存在することのない、尊極なる一個の“生命”を、その人ならではの究極へ、完成へ向けて推し進めることに主眼がある。
他者を完成させるために、指導者は自らが自己の究極へ、完成へ、進み続けていなければならない。
限りなく向上を目指す人と人、“生命”と“生命”がぶつかり合い、磨き合い、高め合う。
火花の散るようなぶつかり合いは、互いの弱点を浮き彫りにする。
気付かせてくれる。
だから自身の弱点を強化するために努力を絶やさない人間が育つのである。
ヱイユが感心していると、ヤエを伴って、ソマが入ってきた。
ヤエは深々と頭を下げ、ソマは感極まってヱイユの体を強く抱きしめた。