第 09 章「無尽(むじん)」
第 01 節「天変地夭(てんぺんちよう)」
国と国とが交戦状態にあることは誰もが知っている。
双方が何を目指しているかも知っている。
だがファラに面と向かって、「民衆を不幸にする一切の悪を断つ」と叫ばれて斬りかかられた場合、自分が斬られるのは敵国の戦士だからではなく、自分が現に、敵味方多くの民衆を不幸にしてきてしまったからだ、という取り消すことのできない事実を思い知らされるのだ。
その時、民衆出身だった一人の兵士が、軍隊という野蛮性から切り離されて、自分の犯した罪の重大さを知るだけでなく、それに対する罰が、殺傷ではなく、無刃の下に諭されるに止まったと知って、全存在を揺すぶられるような衝撃を心に受けることとなる。
彼らの戦う目的は粉々に砕け散ってしまい、先までと同じ理由では武器を握って立ち上がる戦意が起こらない。
こうして同じ民衆出身の敵兵や、昨日までの仲間から、“LIFE”という新しい目的に生き、共に戦おうと励まされるので、彼らは再び立ち上がろうとするのである。
つまりファラは、凶刃を砕くためには無刃刀を帯して戦うが、実際に彼の敵である諸悪を断つのに用いているのは、ひとえに“言論の力”だった。
革命家に特有の鋭い舌鋒、筆鋒と言っても、それらは燃え上がる大感情から発せられる。
普通、人間の感情というものは混沌としていて、あまりに複雑に入り組んでおり、矛盾なく相殺し合わせることなく全てを発現できるものではない。
あのサザナイアが「活人剣」を志したように、人間の潜在能力を最大に引き出すためには、個々の感情を負から正へ、破壊から創造へ、諦めから信頼へ、逃亡から前進へ、そして殺から生へ、転じていくべきである。
負の感情が渦巻く人間社会にあって、まず一人の人間がそれを乗り越え正へと転じることは、実に偉大な革命だ。
「活人」といい、“LIFE”といって、生まれ持った全てを善性の発動のために生かしきる哲学は、盲を開き、蒙を破り、一人の人間にして全ての生命活動の現われを、ただ一つ万人に内在する生命の尊厳性の開花のために集約することができる。
だから強いのだ。
彼らによって、個々の感情は無始無終の永遠の生命活動を貫く普遍の大願望と一つになる。
つまり尊厳性の開花は、大宇宙の生命と、我らが内なる小宇宙の生命とに一貫したテーマであるといえる。
大願となった人間の感情は、触れる者に必ず影響を与える。
心を揺さぶらずにはおかない。
善への勇敢を鼓舞せずにはおかないのである。