第 07 章「展転(てんでん)」
第 01 節「業障(ごうしょう)の苦(く)」
内衛士団は一時退却して野営することにしたが、マーラの追撃を恐れて誰も安眠できなかった。
そして負傷者の呻き声の止まぬ夜は、雨天の朝となった。
戦闘に立てない者は捨て置かれ、帰りたければ帰れと言われた。
彼らはアミュ=ロヴァのためと信じて、前衛で勇敢に突撃した兵士たちである。
この無慚(むざん)が法皇の本性であることは誰もが知っていた。
あまりの非情なやり方に、軍を見限る者も出てきた。
傷ついた仲間を置いていけないので、肩に担いだり、馬を手配して、一緒に帰還する行動をとったのだ。
法皇ハフヌ6世は激怒した。
「生きたところで大した役にも立たぬ者どもが、国のため、法のために死ねる好機を逃して神に背くか!
見ておれ、彼らに法罰が下ることは、絶対だからな!」
瞋恚(しんに=怒り)によって常に苦しむ境涯を“地獄”という。
言うまでもなく、最低・最悪の生命境涯だ。
一体、何の間違いによって、このような人物が最高位の魔法使いとなったのだろう。
古くからのアミュ=ロヴァの信仰で、魔法は神の力の一分(いちぶん)を借り受ける現象とされ、魔法力の高い者ほど神に近い存在と考えられてきた。
ハフヌ6世はたしかに非凡な魔法使いだった。
しかしその力を、おそらくこの世の誰よりも多く私利私欲のために行使していた。
人は、どんな力であれ、それを善の目的に使えば善なる人生を、悪の目的に使えば邪悪な人生を送るようになる。
ならば人は、どのように生きてきたかによって決定付いた自身の善悪の性質、“生命”に習癖として染み付いた“宿業”という名の傾向性を、容易に取り消すことはできないのである。
ここでは、過去世の宿業が今世に現れるといった議論は一時、省くことにしよう。
自身が犯した悪行に対する報いを全てその一身で受け切り、尚且つ次の自身の存在・善悪を決定付けるためには、善に善を積み重ねていかなければならない。
“LIFE”は正(ただ)しくそのことを教えていた。
つまり、因果の理法は峻厳だが道理であって、現在どのような境涯にある者も、必ず善の性質へ、その宿命は転換することが可能であるというのだ。
では、最も重大な過失とは何か。
それは“LIFE”を知っておきながら、背き続けることである。
ハフヌ6世が、この世の誰よりも私利私欲のために魔法力を費やしたのと同様、彼ほど“LIFE”の法理を知悉(=知り尽くすこと)しながら背き続けた人間はいない。
ではなぜ、彼は“LIFE”に背き、“LIFE”の実践者を迫害したのか。
それは、“LIFE”を最第一(さいだいいち)とすれば、彼が手にした権威をほしいままにできないからだ。
“LIFE”が広まれば、その悪徳がいつか暴かれてしまうからである。
すなわち彼は、自身の欲望を満たすためだけに、万人の生命の尊厳性への信仰を、“LIFE”を基調とした人間成長を、社会建設を、実に閉ざそうとしたのである。